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本を積極的に読もうともしなかった子供の頃を思い返すと、やっぱり文字だらけであることが嫌だったし、そんな文字だらけであるものが「こんなに分厚いの、嫌、無理」と、中身なんて関係なく、本棚や机に置かれているその物質としての外見からのみ判断していたようなところがありました。読まなかったり本を買わなかったりする理由は、とってもシンプルかもしれない。
本好きになったのは、司馬遼太郎との出会いで、そこからは早かったです。ほんとのめり込む、といった感じでした。だから、ほんとうに面白いものはほっといても、もしくはちょっとしたきっかけで読まれるんじゃないの、と楽観的、かつ厳しい考え方をしています。
売れてるものには売れてるだけの理由があるし、売れないものにもそう。
「売れない、でも中身は本物です」と言ったところで、書いた人自身が、売れて欲しい(目的が報酬であれ、多くの人に表現を知ってもらうためであれ、どちらもであれ)と思うのならば、知恵を働かせ(読者や状況に合わせ)ないといけないだろうし、また書いた人が「中身は本物だから売れなくても構わない」という清貧で良しとする人なら、書くことだけに没頭し、場合によっちゃあ発表すらしないかもしれない。
読者や状況に合わせるのは嫌い、面倒くさい、性格的に受け入れられない、でも買われて広く読んでほしい。「我儘言うな、少しは折れろ」とも言えるし、「本当に全てを満たす方法はないのだろうか?」と考えることもできる。
ネットなんて、ちょっとしたきっかけ、に利用する余地が一杯あると思えて仕方ない。
土地柄、商売人の幼馴染が多いのです。
台湾系日本人のパチンコ屋の息子が豪邸に住んでいるのは子供ながらに理解できていましたが、さば寿司持ち帰り専門の小さい店の息子が小中高大を私立に通ったケースや、二坪ほどのスペースで豆を売ってる店の娘の家が二回新築されたり、ささがきゴボウをメインに山菜なんかを売る店の息子は京大を出てすぐ店の跡を継いでいる、このことがなかなか信じられなくて、盆に開かれた同窓会の折に問い質すと、副業があるわけでも、不動産持ちでも、血筋で食ってるわけでもない。
ホンマもん売って、ホンマもん買い続けてくれた人に誠実で、売上げ落ちたら頭下げて回り、それ繰り返すことで今までやってき、ホンマもん嗜好の人が遠くにいるなら、ネット使って宣伝うって、メール使って商談して、通信販売で利益をあげる。もちろん昔からの馴染みのお客さんのために店頭販売もこれまで通り疎かにしない。それだけのこと、と彼らは言っていた。
ネットは道具であって商品じゃないし、開けっぴろげの情報はただで手に入れることが前提、良いものは形ある状態になっているものを買うという、今まで通りの頭でいたい。
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