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▼Ashitaさん:
>私のような、本好き、読書好きといいながら、文学作品や、小説を中心としては読まない者について、どう思われますか?
別に良いと思います。どこかでどなたかがおっしゃっていました。
『読書は孤独になることができる、ほとんど唯一の行為』
孤独になることの善し悪しは、どうでも良いです。ただ同じように感じていますし、感じられるから読書を続けているんだろうと思います。現実逃避、と自覚してしまいそうになることもないではないのですが。
文学作品や小説でなくても、読書は素敵です。ときどきエッセイを手にします。十分孤独を感じることができます。
先週読んだ、『わたしは変温動物』という山田詠美の初エッセイ本は、やはり一晩を孤独にしてくれました。
おもしろい箇所が二つあったので、抜粋します。
1『私はいつも本を読むとき、それを大切にしている。訳が解らないが、少しせつなくなったり、甘い悲しい気持ちになったりするのは誰でもあることだと思う。そして、それは少し困難な事でもあると思う。大きな悲しみやとてつもなく幸福という感情は、物理的な事件によって意外と容易く味わえるものだからである。なんとなくせつない、おかしくもないのに笑いがこみあげるという感じ方は、感性を退化させると出来ないものだと思う。そして、感性の退化した小説は、人間をそういう気持ちにさせることが出来ない。』(「よい小説」より)
よい小説は、感性にうっすらと触れてくる。またそれは、感性のある人にしか読みとることができない、といった意味だろうかな、と。
「モウケの仕組み」をうたった本が、こんな書き方してたら信用ないでしょうね。
小説・文学作品にしか出来ない、また許されない芸当なんだろうと思いました。
同じ読書でも、読み方が全然違う。
前に書いて削除しましたが、
「参考書・辞書」は、受け身の姿勢で読める。
「小説」を読むことは、能動的な行為。
それともつながっていそうだなと思いながら記事を読みました。
2『紳助(島田紳助)のMTVの録画撮り。この紳助さんが、またいいのだ。すごく真摯な人。私、テレビに出て、久し振りに楽しかった。(略)
紳助さんは、今、小説を書いているというから、私は、帯にコピーを書く約束をする。
彼は、本を売るのに、直木・賞というペンネームを使おうかと言って、スタジオ中、大爆笑。』
売れる・売れない、理想と現実。的確に揶揄しているエピソード。
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