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▼重い月さん:
質問のご回答を有難うございます。
読書好きにも、いろいろなスタイルがあっていいのですよね。
(私は小説メインで読書をしないことを、引け目に感じる時がありまして…)
孤独に浸って、自分と本が静かに対話できる時間の魅力は、読書ならではのものですものね。
私は、これまでずっと、自分の知らない世界や他の人の物の見方を知ったり、
知的好奇心を満足させたい、何か困ったときや悩んだときの解決を見出したい、
そんな目的で本を選び、読んできたように思います。
小説でももちろん、そんな思いを満たしてくれる素晴らしいものがありますが、
どうしても、小説を読むよりも、エッセイなどで著者の生の声を聞きたい、
ノンフィクションや学術系のもの、実用書などで、ダイレクトに好奇心を満たしたいといった、
自分の知りたいことに答えを出すための読書、になってしまいがちなのです。
実は、今回、重い月さんの投稿(質問)を目にして気づいたものがありました。
私は、今まで、このサイトに投稿させていただきながら、自分の視点や意見に一貫性がなく、
どうもひっかかるなと思っていたのですが、その原因らしきものがわかったのです。
このサイトに訪れる方は、おそらく村松先生のメルマガから来られている方が多いでしょう。
(私もメルマガ読者ですが)そのような方々なら、「本好き≒小説好き」
「文章を書く≒小説を書く」と、認識している方が多いのかな、と思ったのです。
当初、私は、そうはとらえていなかったのですね。
ですから、私の初投稿では、「無料の情報は自分でも活用させてもらっているし、
別によいのでは?」といった意見でした。それが、ここにきてやっと、ネットの影響で
「文章でできた作品」と「文章による情報・ネタ」が混同されて、それらの価値、
無料、有料の境目がぼんやりしてくることが問題視されているのでは、と気がついたのです。
齋藤孝さんが「座右のゲーテ」(光文社新書)P151「消費されない作品」の中で
書いていらっしゃいます。
― 今のビジネス社会は、すぐにダイレクトに大衆に受けることを最優先事項に
おきがちである。
だが、そればかりを意識すると、一瞬にして消費されてしまって終わりである。―
ただし、情報が作品となったり、作品が情報を兼ねることもありえますよね。
(レシピ本は情報?作品?…闘病生活や困難を乗り越えた体験本は作品?情報?)
私の読書やネット閲覧は、作品を読むより、情報を読むためのものに偏っていそうです。
すみません、話がそれてきてしまいました。
私も、これから、もう少し小説を読もうと思います。(能動的に!)
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