[プロ編集者による] 文章上達<秘伝>スクール特別企画 「ネットと無料」ニュース
 
このサイトは、メルマガ『プロ編集者による 文章上達<秘伝>スクール』に寄せられた反響がとても多かったことから企画されました。
ぜひとも、さらに多くの方々からご意見をいただきたいと考えています。
専用の掲示板を設けましたので、皆様の意見を聞かせてください。
反響を呼んだ 「ネットと無料」のQ&A!
反響メール

第1のメール
無料で小説を公開しています

第2のメール
「ラノベのみを読んでラノベを書く」ではダメ

第3のメール
スタイルを変えずに生き延びること

第4のメール
経費削減でプロが切られる

村松の意見
競争をやめて、遊ぼう! 時代は変わる

たくさんのメールをいただきました。
僕の考えているところをまとめて書かせていただきます。

最初にとても具体的なことから。
『なか見!検索』は、前に検討しました。
出版社のほうから、その際に手続きが意外に面倒だ、というような話を聞いてやめたような気がします。

ネット上ではさまざまな宣伝手段があります。
ある意味で何でもできてしまいますが、効果がわかりません。
そして、たいていのものは効果がありません。
いろいろやりたいことはありますけれども、大切と思われるものも手がつかないのが現状です。

投下した手間暇と時間に対して、割に合うのかどうか。
ネットではどうしてもそのような効率論に収束してしまいます。
僕は文章を書くのは好きですけれども、ネット上のシステムを理解して、手続きをし、それにあったデータを切り分けるというような作業は苦手です。人に頼んでいますが、ときどき自分でやると本当に消耗します。

『なか見!検索』の話をすると、アマゾンでは、僕の本のページに来てくれた人は、75パーセント近くの人が本を購入してくれています。他の人の本を見るともっと低いですね。
ということは、大部分の人は、僕のことを知っていて、買うということを決めて来てくれているということです。

だから、アマゾンに『なか見!検索』をつけることにエネルギーを使うことがいいのか、もっと僕を知ってもらい、アマゾンのページに来てもらうことにエネルギーを使うことがいいのか、というのは微妙です。

そもそも、文章の本というカテゴリーはマイナーで、しかも、「そんなに簡単に作家になれるなんて思わないほうがいいよ」という僕の立場は、ますますマイナーなので、全体に宣伝効果は低いのです。

自分自身の生産物を売るという知恵もないのに、ましてや地方の書店や図書館の状況をどうにかする、という力や余裕はありません。

いま、メジャーでいちばん目につくのは成功系ですね。
「私はある方法を知って、あっという間に成功しました。その秘密をあなたにも教えますから、あなたも成功しませんか?」というセミナーがたくさんあります。

1日のセミナーや商材が何万円もします。
つまり、お金を生むセミナーだから、惜しげなく投資しなさいというのです。

そういうセミナーの隆盛を見ると、複雑な気持ちになります。
「お金がほしい」という誰にでもある単純な欲望に働きかけるものは強いなあ、と。

結局、ネットの普及は多様性を生み出すよりも、より単純に強いものを強くしただけだった、ということが言えます。

インターネットが始まったときは、誰もが自分の文章やイラストを発表できるようになる、それはすばらしい革命的な可能性だと感じていたんだけど、それはどうだったのでしょうか。

結局、世の中に溢れかえったのは、大量の亜流の表現です。
亜流でありながらも自分が何の亜流であるかについても全く無自覚な人々が大量に発生しました。
発生したというより、もともといたのでしょう。
しかし、紙媒体では頭角を現せないし、発表の機会もない人々がブログやサイトで表現を始めたので現れたのです。

表現の世界では、100点の作品しかいらないのです。
ある作家のオリジナルな作品が100点であれば、似たようなテイストで80点の作品は世に出ないで淘汰されればいいのです。

ところがネットの世界では、オリジナリティにおいて、20点くらいから100点くらいまでの表現が混在しています。
ネットには編集力が不在だからです。
ネットで編集の仕事をしたこともありますが、編集して洗練させた表現と、ゆるーい表現との間に、数字的には、さほど大きな効果の差が現れないのです。
SEOというような別の要素が大きく絡みます。そして、数字だけなら、やはり人の欲望を直接に刺激するタイトルをつけたものが圧倒的に大きいのです。
ミクシィニュースのコラムなどでも、タイトルに惹かれて読んでしまうけど、中身はスカスカでいい加減なものがたくさんあるでしょう?
ネットの世界には、数字は低いけれども、質はいい、という評価はありません。ないといっていいでしょう。テレビの視聴率と同じです。
そして、本を読まずネットの情報を中心に読んでいる世代がいます。
この世代は、明らかに評価能力が低くなっているのです。
書き手の平均値が下がると同時に、読者の読解力の平均値も下がっています。

したがって、優れた表現が「埋没」しやすくなったという顕著な傾向があります。
こういうことがあらゆる分野で起きています。

ニュースにコメントをつける人がたくさんいるでしょう。
悪いことをした人に対して「けしからん」という意見を書く人がいます。
性犯罪のニュースであれば、「こんなヤツは去勢してしまえ」という極端な意見を書く人が必ず何人もいます。
編集者の立場から見れば、これは何人が言おうが何十人が言おうが、一つの短絡的な意見(意見という名に値するとして)なのです。
つまり、一人が言えばたくさんなのですが、何人もで同じ事を言って、それが自分の意見だと思っています。
しかし、考えは多数決ではないのです。他の人の意見と同じ物は、何人が口々に言っても一種類なので、一つ以上ないのと同じなのです。

ところがそれを自分のオリジナルな意見と思いこんでいる人が多いのです。
表現の自由があるから、何を発言しようと自由です。たしかにそうなのですが、それはカラオケで歌を絶叫するのと同じで、仲間以外は聞きたいと思いません。
何もオープンな場所でわざわざ発言する必要はないのです。

ネットでは、そういう類型的な発言も傾聴に値する意見も、ほぼ同列の扱いを受けます。

というのは、類型的な意見を述べる人のほうがはるかに数において勝っているからです。そして、そういう人は、他の人の意見を公正な立場で読んで検討することをしないからです。
自分の狭い先入観で世界を斬って見せてそれが公正だと悦に入っている。

たとえば、死刑制度に賛成の人も反対の人もいますが、こういう考えというのは、相手側の意見を聞いて、意見を変えることは100に1つもないでしょう。
そうすると、意見というものは、もともとの先入観を理屈づけているだけになります。
同じ意見の人間が寄り集まってうなづきあうだけのものということになりかねません。
そういう同意だけを求める人は、違う意見に対しては、ヒステリックに反応し、発言者の人格を否定するという反応を取ります。

意見を持つことはいいことだと思われていますが、人が口々に言いたいことを言っているだけでは、創造性は生まれません。
相手の意見を傾聴しない人同士が意見を言い合うことにはさほど意味がありません。

世の中でいがみあいはたくさん見かけますが、有意義な論争というものはもう長い間、見かけたことがありません。
論争が有意義な結論を生んだことは、昔もさほどないかもしれませんが、それなりに自分の立場をかけた真剣な論争を、かつては文化人が雑誌などでしたのです。
しかし、今はタレント化した学者はお互いに得にならないので、余計な論争はしません。
言論の重みも、かつてよりずいぶん軽くなったように思います。

全体に軽くなっているのです。
いま、小説を書いている人や、イラストを描いている人には、過去のすぐれた作品に対するリスペクトがあまり感じられません。
というのは、小説はライトノベル、イラストはアニメの流れが入ってきて、二重底になってきているのです。
ライトノベルを突き詰めて、深めても普通の小説にはなりません。
アニメっぽいイラストを深めても、いわゆるイラストレーションの流れには入らないし、もちろん純粋絵画にもなりません。
それ以前には、小説には純文学とエンターテイメント(大衆文学)という2分法があり、純文学に本質があると思われていました。
それが重心がエンターテイメントに移り、さらにエンターテイメントが細分化して来たのです。

そのように階層やジャンルが分化することによって、力を失い、失われつつあるものがたくさんあります。

労働にも似たような現象があります。
古典的な労働、農業、畜産、漁業などを考えてみればわかりますが、一人の人は生産の初めから終わりまでに関わり、その全体像をつかむことができます。
農業でいえば、田植えから(もっと前からあるでしょうが)、収穫、出荷まで一人の人がすべてに関わるでしょう。
しかし、今のシステム化された仕事は、クレーム処理をしている人は一日中、一年中クレーム処理ばかり、タイピングは一日タイピングばかり、というように専門化され、全体に関わることはおろか、隣のデスクの人が何をしているかさえ知らないで働いていることがあります。
これは、自然環境を相手にしているか、人工的な環境を相手にしているかの違いです。
人工的な環境では、どんどん役割が分節化していって、全体が見えなくなるのです。

これは一言でいうと、もう「時代の流れだから仕方ない」ことでしょう。
時代の流れは、人の心身にとってのよい悪いではなくて、経済効率で進んでいきます。
活字がなくなって写植になるときも、写植からデジタルフォントになるときも、たくさんのよいものが流れ去りました。
文字デザインから、細かい味わいニュアンスというものが飛んでしまったのです。
しかし、だからといって、活字の時代に戻れるわけではありません。
またデジタルフォントの表現力も上がって来ています。

それと似たようなことが起きている、ということです。

いつの時代も僕の世代の人間は、「昔はよかった。今は物足りない」ということを言っていたような気がするのです。
それとコンピュータ技術やネットの発達で急速に起きた状況の危機を分けて感じるのはなかなか難しい面もあります。

僕は小説や文章一般に非常にはっきりした落差、質の低下を感じています。
しかし、それはいま極端に現れている時期であって、人はどこかでそれを取り戻すだろう、と考えています。
ライトノベルが進化、深化していくかもしれないし、あるいは、その反撥で「純文学」というものが何かの形で復活するかもしれません。
あるいは、文章の質が低下した分、アニメやマンガが長い絶頂期にあるといえるかもしれません。

雑誌の原稿料は、少なくともここ30年くらい全く上がりませんでしたが、ここにきて、あきらかに20?30パーセントくらい下がり始めているようです。ある時点からみると50パーセントオフというような仕事もあります。
これでは、質の高いベテランは喰うに困り、新規参入する若い人に夢がありません。

本や雑誌とともにテレビも衰退し、じつに多様な現象が同時に起きています。
今起きていることを書いていくと、話は拡散してとめどもありません。
自分でも書いていて収拾がつかなくなりかけています(笑)。

ここから、要するに何が起きているか、ということを考えましょう。
そして、どうしたらいいか、ということを考えて行動を起こしましょう。

いわゆる問題提起する、ということは僕はまるで信用していないのです。
ここに問題がありますよ、というだけ言っておいて、解決はみんなで考えましょう、というのはドキュメンタリーなどでよくあります。
しかし、それはかなり欺瞞ではないかと思います。
問題を問題として固定してしまうからです。

それぞれの人がそれぞれに状況を読み解いて、だったらこうしよう、と行動を始めるのが本来の姿であると思います。

僕のこの現象をいちばん大きな視点でみると、頭脳労働、精神労働のモダンタイムズだと思っています。以前にも書いたかと思いますが、もう一度書きましょう。
モダンタイムズはチャップリンの有名な映画で、工員をしているチャップリンが工場の歯車に巻き込まれて、グルグル回ってしまうシーンで有名です。

これは工業化が進み、人が機械を使うのではなく、機械に人がペースをあわせ、機械に人が使われてしまう、という皮肉だったのです。
人が人の本性からはぐれてしまうこと、かつてはそれを人間疎外という言葉で言い表しました。
コンピュータ化も単純に言えば、機械化、合理化、オートメーション化であって、発達すればするほど人が要らなくなるのです。

機械化が進むと、人は要らなくなり、失業者が増えます。
工業化で人が要らなくなったように、いま、コンピュータ化、IT化で人が要らなくなったのです。

最初の工業化では、単純労働者の職が大きく減りました。
コンピュータ化では、そのようなことが、まず企業の事務職で起き、管理部門がたいへん単純化され、同時に労働の質がマニュアル化されました。
一人一人が全体を把握する必要がなくなって、仕事自体が部品化したのです。

そういう波が、遅れて、文筆業やデザイン、写真家などの職業にも及んできたのです。
創造的な職業は機械にとって変わられることはないと思っていましたが、聖域ではなかったのです。

つまり、文章もデザインも写真もイラストも部品になったのです。
部品としての評価は、作品としての評価のように濃やかではありません。
とりあえず埋まっていればいい、クレームが出なければいい、安くて納期が守られればいい、という発想の人たちが部品の買い付けのように仕事を依頼するのです。

もちろん、すべてがそうではありませんが、創造的な価値よりも、経済的な価値にずっと重きが置かれるようになったのは顕著な傾向です。

20世紀のSFでは、バラ色の未来が描かれていました。
21世紀には科学技術や工業生産が発展し、辛い単純作業はロボットがすべて代行してくれて、衣食に困ることはなく、人は人しかできない精神的で創造的な作業だけに没頭できるはずでした。

ところが実際は、日本では格差や貧困が目立つようになり、うつや自殺者が増え、人間疎外はより深刻かつ複雑になっています。そして、かつては認められていた表現の価値も質的なモノサシが壊れてしまいました。

一体何がバラ色の未来像とは違ったのでしょうか?

大雑把に2つのことが原因だと僕は考えています。

一つは富の集中化の加速と拝金主義です。資本主義というのは、もともと資本を持つものが有利なゲームですが、その資本が国際化して、投資マネーがコンピュータのネットワークに乗って、世界中を自由自在に飛び回るようになった。
金は自らの磁力で金を引き寄せます。
そして、M&Aのような形で、資本は統合されていきます。
理論的には、ブラックホールのように全てのお金は一極に集まってしまう現象が起きると思っています。そういう現象は加速度的にな起きているので、ものすごくはっきりした形が現れるのはそう遠くないと考えられます。

一方でその対極の労働運動のほうは、すっかり無力化してしまいました。
その原因はここでは深入りしませんが、資本家側はどんどん管理の仕方が賢くなっていったのに対して、労働者側はある時点ですっかり方向感覚を失ったように見えます。

その結果、労働者の結束は失われました。みんな自分のことで精一杯で、他人とつながるエネルギーも方法論もありません。最近の人間関係は、よくできたチャーハンのご飯のようにパラパラとしています。

そうして、人々の意識は、自分も成功者の仲間入りを果たしたい、という上昇志向と、何をやっても大した希望がない、という無気力とに二極化しつつあります。
どちらも拝金主義の裏表なのです。
そういう経済中心主義というものが、人の心の中にまで浸透してきました。

この大衆社会の中では、お金以外の価値観が共有されることが少なくなりました。

第二のポイントは、たいへんな消費社会になったということです。

食べるもの、着るもの、住むところ、あらゆるもののグレードが上がっています。
その上、かつては存在しなかった製品、携帯やパソコンも必需品化しています。
そして、引き落としだからあまり意識しませんが、通信費に数千円を毎月支払っています。
先日は、生活保護で暮らしていて、カツカツでもう削るところがない、という親子がそれでもしっかり携帯電話は持っているというコラムがありました。
数百円もするスイーツもブームだし、ドラッグストアというものもかつては存在しなかったのです。薬局はあったけれども、ドラッグストアというものはなかった。
数十年前は存在しなかったものがたくさん売れているのです。

東京で一人暮らしをしたら、風呂つきのマンションと光熱費で8万円。通信費で1万円。ファッションなどで1万円。食費で3万円……。10万円代後半くらいの収入であれば簡単に吹っ飛んでしまいます。不時の出費や、貯金に回るお金などまるでない。
しかし、実際は収入が15万円も行かない若い人が増えているようです。
これでは、手から口へでジリ貧です。

つまり、生産力が上がった分、生活や消費が高度化してしまって、ちっとも生活の余裕に回らない。むしろ、広告の発達で四六時中欲望を刺激されて、どれだけお金を使っても、つねに飢餓感がある状態にさせられている、ということです。

これがバラ色の未来からの分かれ道です。
では、どうすればいいのか。
ここからは、大まかな方向性を示すために、やや現実離れしていると思われるかもしれないことを書きます。
どうしたらいいか、ということについては、そういう風にしか書けないのです。

簡単にいうと、拝金主義と消費、この2つからドロップアウトする原理と枠組みを作ればいいのです。

テレビのニュースでは消費の冷え込みを悪いことのように言いますが、もう消費社会はいいです。どうやってたくさんお金を稼ぐかではなくて、少ないお金でどうやって暮らし楽しむか、ということを考えなければいけません。
経済はどのみち、今後縮小していくでしょう。
そのとき世界がどうするかは、資本家や政治家が考えればいいことです。
大きな仕組みを握っているのは彼らですから、彼らに考えてもらって、僕たちはもっと自分の身の回りから考えなければいけません。

拝金主義というのはつまり競争主義ですから、競争もやめてしまえばいいのです。
少ない仕事を競争で奪いあえば、労働条件はどんどん悪くなります。
自分の食べられるだけを確保したら、あとは楽しむために時間を使いましょう。
競争するより、友人と仲良くする。
家でお茶を飲んで話したり、将棋を指したりしていれば娯楽に金は要りません。
俳句や短歌、絵を書く趣味もお金は要りません(油絵とかお金かかりますけどね)。

遊びが上手にならないといけません。
それもコンピュータやテーマパークで遊ぶのではなくて、人と遊びましょう。

今までは人との競争に勝ち抜く人が偉かったのですが、今後は人と遊べる人が偉くなります。出世の努力より上手に遊ぶ努力をするのです。
ご飯もやお酒も、外で食べるより、自分たちで作ったほうが安くておいしい。
コンビニで何か買うより、仲間で炊きだしをしたほうが健康にもいい。

でも、そういうのって、いろいろ気を遣ってわずらわしいと思う人も多いでしょう。
それなら、コンビニで弁当を買って勝手気ままに食べたほうがいい、という人がいると思うのです。
それが今の経済の形であり、その経済の形に添ってできあがった心の形なのです。

先ほども書いたようにシステムは縦割りに人を分断するように働くのです。
人と人の横のつながりは、今の社会ではかなり意識的に作らなければできません。
しかし、これから経済が縮小に向かうときに、とても大切になってくるはずです。
鳩山首相は「友愛」社会ということを言いました。
抽象的だと批判する人もいますが、僕には上記のような意味でとてもよくわかるのです。


太極図というものを見たことがあるでしょうか?
陽と陰とが円の中で追いかけっこをするように回転しています。
陽が極まれば陰に転じ、陰が極まれば陽に転じます。

今の世の中の傾向も、一つの頂点を迎えようとしているように感じられます。
頂点を迎えれば衰退し、それと反対の傾向が台頭します。
今はまさにそういう時期です。

そういう時期があと10年続くのか、30年続くのかはわかりません。
おそらく、一筋縄では行かずに、まだらにいろいろな出来事が行きつ戻りつ、交錯しながら進むでしょう。
しかし、全体の方向ははっきりしていて、変化に50年、100年はかかりません。

僕が今できると考えているのは、過去のよさを懐かしみ取り戻そうとすることではなくて、新しい時代の準備をすることです。

それが【DRAGON ART CREATOR'S REVIEW】であったり、『心が大事』であったりします。僕が何をしたいのか本当の意味でわかってもらえるのは、5年か10年後のことになるでしょう。
僕の中では、新しい時代の見えない基盤整備をしているのです。

僕はインフラを作ろうとしているだけで、そこに家を建てるのは若い世代になるでしょう。
利用してもらえる価値があるものになるかどうか、それだけをいつも自問しています。

つまり、今の時代傾向はもうどうにも止められない。止めようとするよりも、行くべきところまで行き着いてしまったときに備える、というのが僕の考え方です。

時代は閉塞感がありますが、若い人には時流に流されずにじっくり自分自身を育ててほしいと思います。そういう努力が生きるときは必ず来ます。

話が今の時代状況全体に広がってしまいました。話が長くなってしまったし、十分に説得力を持って描き切れていない部分も多いかもしれませんが、このように世の中全体、時代全体を視野に入れて、何ができるかを皆さんも考えて頂きたいと思います。

大きなテーマを含んでいますので、これで終わらせずに、おおいに議論をしましょう。

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