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松×松 アブない?公開往復書簡

とりとめもなき現実について   松尾由紀夫


ああ、そうでした。ウィリアム・S・バロウズなんて知るずっと前、バロウズといえばE・R・バロウズ、創元SF(推理)文庫、そして武部画伯! の表紙と口絵、「SFは絵だねえ」と野田元帥! の言うとおり。

いや、SFとファンタジーと冒険活劇と、ジャンルの拡散と浸透を、あるいは深化と矮小を語ることでも、カテゴリー化され、既存化してしまった各種エンターテインメントの現況は見えてくるんですが、ここではちょっとアプローチを変えてみましょう。

例えば、「冒険活劇」っていうときに、むかしはそのアタマに「熱血」とか「明朗」とか、まれには「ユーモア」とか付いていましたっけ。そこには、牧歌的とも思える、規範的な「理想」や空想的な「夢」がありました。具体的には、良い「人間」を育てようとする「大人」から「子ども」への配慮のような思いがこめられていたんですね。

まあ、いったん壊れた秩序を立て直して、明るい明日を築こうとした大むかしのことですが、やがて、社会秩序もとりあえず再建されたとなれば、「若者」は、「退屈」と「欲求不満」と「やり場のないエネルギー」を持て余していましたから、いわゆる、公序良俗や良風美俗、因習道徳の根底にある欺瞞性、打算と要領の良さの裏にあるインチキ、いやらしい追従の精神の下劣さに「反抗」するようになりました。

つまり、大島渚の映画の中で荒木一郎の演じた不良というのは、そんなふうに新しい生き方や新しい価値観のマインドを見せてくれたわけですね。
「明るく、正しく、強く」でも「清く、正しく、美しく」でも、そんな規範があればこその反抗、「非行、暴走、無軌道」でした。

その頃、「現実」と対に置かれたのは、確かに「理想」や「夢」でした。けれど、いま、「現実」と対になるのは、おそらく「虚構」というコトバでしかありません。
「現実」がとらえにくいものになるにつれて、対応するコトバも漠然となりました。「理想」や「夢」には、いずれも希望がありますが、「虚構」と言ってしまうとき、そこにはむきだしな「現実」が寒々と指摘されているだけです。
「現実」はますます過酷なものになりながら、何故か現実感は希薄で、もはや、ここでは「反抗」という逸脱すら虚しい。

私のむかし話は、あいまいな根拠で68年辺りを巡りましたが、その頃までは大きな「物語」だった「人間」「社会」「権力」「支配」あるいは「革命」も、80年代の半ばには複雑なそれとも単純なそれぞれの事情で、結果的には失われました。

既成の権威に、とりあえず「ノン」と言うスタイル、「アンチ」や「カウンター」という否定形の意識では、もはや成すすべのない時代の始まりです。

大人に対して子どもを、管理支配に対して自由を、悪や不正に対して正義を、計算高さや処世術に対して夢を、金に対して心を、欲望に対して愛を、嘘や偽りに対して真実を、こんなふうに概念だけが対立するフレーズも、やがて意味を失くしました。

大人と子どもというフレームが無効になる以前に、実は「人間」なんていう他人や隣人もいなくて、そんなふうに考えるから身近な人々を見失うんだとか、必要なのは抽象的ではなく、抽象化できない他人との豊かで広がりのあるコミュニケーションなんだとか、そんなことがよくもまあ言えるもんだと思いつつ、それがどんなふうに可能なのかすら見失われて久しいのです。
否定の意思が政治や思想の文脈を持つことのできた時代なんて、気が遠くなるより、もっと遠いのです。
にもかかわらず、矛盾や不正、邪悪な存在、否定されるモノというのは歴然とありつづけます。

ところが、すでに「社会」というのは、理想を求める対象なんかではなくて、あからさまに「現実」でしかありません。
是非、善悪、正邪、真偽ではなくて、明るいか暗いか、カッコイイかカッコワルイか、きれいかきたないかという、感性や気分、情緒が求められました。
戦争だって、「雰囲気で決める」らしい。

成熟したとか高度なとか、言ってみても言わなくたって、もうどうでもイイ。つまりは消費経済社会の都合のイイように、経済力のみが問われて、すべてはマル金、マルビという記号としてかたづけられて、「言いたいコトはわかるけど、主張したりすんなよ」ってたしなめられます。
金と色で泡踊り、無責任と恥知らず。やがて、シラけた、クールな、ポストモダンな、ソフィスティケートされた不毛性と錯覚だけを残して、爛熟した情報化と消費化の時代とか上滑りしたコトバで、閉塞。

泡沫の日々、基本的な欠落が(それこそ3Cとか)埋め合わせられた後の豊かな社会が、実感のないまま訪れました。
あきらかな不均衡はあるにもかかわらず、個々の事情に還元されないコトバでそれを語ることは難しく、人々はそれぞれに幸せのイメージを描いてみるけれど、自分でもこれっぽっちも信じていないことに気がついて、力なく苦笑するしかなかったので、やがて何を幸せというのかもわからなくなって、チンプなイメージだけが途方もなく分化するばかり。

あらためて言うまでもなく、メディアで伝えられ、流通するのはイメージだけです。コマーシャルとそれ以外の広告で、ふいに「本当」とか「本物」というコトバや文字が浮かぶことはあっても、伝えられるのは「価値」ではなく、単に高価であるということでした。
もはや、かけがえのない価値なんかをうっかり主張すると、現実から遊離してゆくだけです。

実感のあるなしにかかわらず、個々に価値観の違う幸せを求めながら、何を捜していたのかすらわからなくなるような、それでもあきらめるわけにもいかないような、ひとそれぞれに生き辛い社会かもしれません。

現実は理不尽なほど現実で、現実は不可解なほど現実で、現実に勝る現実などありうべくもなく、ひたすらに現実で、分析や批判をくりかえすよりも、そんなもんがナンだと大声を出すほうが面白いという評価をウケたりするし。

世界中の出来事のイメージは瞬時に伝えられはするものの、では自分はどうすればイイのか、自分では答えが出せないだけでなく、自分とのかかわりすら感じられなくなることに、誰もが慣れきってしまいます。
そんなことになったのに、もちろん隠された真相なんかないでしょう。

それでも、社会がうまくいっていればいいと、タブーのない、倫理のない、公衆道徳にもうるさいことを言わない、つまり、すべてはお互い様。
ひとりひとりが別の現実を生きています。
現実が見えないわけではなく、どんな現実に直面しているかが、個別に細分化されて、生きにくい局面を選べば、排除されるだけのことです。
生きにくい局面をココロに抱えこむと、精神病理として扱われます。

そうしてやがて、生きていることのリアリティすら失うでしょう。
「どうしてひとを殺してはいけないのか」という、バカな問いにも答えられません。

日本の若者は、外国の若者よりもひとを殺さない。なるほどね。
別の調査がありました。先進国の若者に聞きました。「あなたは祖国のために戦地へ
赴きますか」。
「はい」と答えた日本の若者は15%。
ダントツのビリで、ビリから2番目のスペインは30%だったそうです。
でも、日本の若者の45%は「わかりません」と答えました。よくわからない調査でした。

きっと、「退屈」は死語ではないのでしょう。
退屈を恐れるあまりに、映画はスキマを埋めつくすのです。
退屈を恐れるあまりに、若者はケータイをニチニチ打つのです。
することがないことは、したいことがないことに直面しますから、ムダなことをしてしまうし、させられてしまいます。
年間、数万人の自殺者がいるという社会の中で、命さえ死ななければ「平和」でしょうか。

えーと、今回、いささか取り止めなくなりました。
では、希望も未来もないのかといえば、私は「ある」と答えます。

ふさわしいリンクもありませんが、いくつかの読み物を、例によって無断で紹介しましょう。
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小林まみ『地球の恋人たちの朝食』
http:// www2.diary.ne.jp/ user/ 103960/
二階堂奥歯『八本脚の蝶』
http:// note2.nifty.com/ cgi-bin/ note.cgi?u=ICF13700&n=5
古谷利裕『偽日記』
http:// www008.upp.so-net.ne.jp/ wildlife/ nisenikki.html
シルチョフ=ムサボリスキー『深夜特急ヒンデンブルク号』
http:// www.hinden5.com/



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