松×松 アブない?公開往復書簡 自殺と炊き出し 村松恒平 |
前回のリンクは、すばらしいですね。 ネットの中から、これだけの詩的言語を探し出すとは、なんか松尾さんは砂利の中から砂金を見つけだす魔術師めいた鉱山師のようです。こういう良質な言葉たちを見ると、紙に定着してたいという欲望を感じますね。もちろん、リンクを張ることだけでも、立派な編集作業とも呼べると思いますが。 僕は詩をそれほど熱心に読む人間ではありませんが、これらの言葉のよさはわかります。 こういうのに照らしてみると、ネット上というのは、たしかにいらない言葉に充ち満ちているな。 人が言葉を選び、言葉が人を選ぶ。それがお互いにかけがえがない。他の言葉にもなりえないし、他の人間の発言でもありえない。 ある精神の速度を持っていなければ、こういう言葉との関係は生まれないのです。努力の積み重ねでは届かない速度を持った言葉。 ネットの物書きたちで、これを読んで「自分には書けない」と打ちのめされる人は、ごく上等な人たちでしょう。 あとの人たちはきっと理解できない。 受信できないような気がする。 それを才能と呼んでしまっては、すべてのお話は終わってしまうのですけど。 こうして、野に咲く輝かしい花々を花束にして差し出されてみると、僕のやっている教育めいたことは、農地の土壌改良の、さらに基礎研究のようなことで、お返しする 一輪の花もありません。だけど、そのことにすごく意味があるのだ、ということは、何かひしひしと感じているのです。 そのうち日本中をお花畑にしたい、という野望ですね。 「なんのこの程度は小手調べ」と松尾さんはおっしゃるでしょう。 まだまだ松尾さんのシルクハットからは、ハトや花やライオンやゾウやキリンなどが登場するのかもしれない。そうしたら、僕はバニーガールの格好をして魔術の助手を演じましょう(笑)。 ● 自殺者2万人というのはねー、たしかに平和でないと言えば、平和でない。 人間には、一定の戦争やらバトルやら、残酷さが必要だというようなことがときどき言われます。 それは一理あるのかもしれない。 古くはローマの闘技場で剣士とライオンを戦わせたり、キリスト教徒を虐殺したりした。 最近では、アメリカが内政問題が煮詰まり、大統領の任期が翳ると、外に敵を作って戦争をすると人気が上がると言われています。 しかし、日本人は敵と言われてもピンと来ない。北朝鮮に対しても警戒感はありますが、滅ぼしたいとは思っていない。できれば、平和のうちに勝手に滅びてくれないかな、と思っている。 これを僕は美質と呼びたいが、両刃の剣であることも間違いない。 外に敵を作らない分、日本人の戦争や残酷は内向しているのかもしれない。 先日の土曜日も「人身事故」で電車が20分以上遅れた。事故ったって、ほとんどが飛び込みだよね。その電車は遅れたせいでぎゅう詰めで、いやな思いをしました。最近本当に多い。 最初は僕は「バカ野郎」と思いました。「もっと人に迷惑をかけないで死ね」「どうせ生きている間も周囲に迷惑な奴だったんだろうな」 しかし、最近、あまり多いので、やがてかわいそうになってきた。たぶん、人の迷惑も何も考える余裕もなく、もうろうとして死んでいったのだろう、と。 経済的に行き詰まって死んだのなら、それはまた僕であった可能性がないとは言えない。 しかし、いまや新聞記事にもならないから、年齢も性別も職業も人相もわからない。 誰かがまた死んだんだ、ということが「人身事故」という言葉で想像されて、迷惑だけがかかってくる、というのが切ないですね。 というわけで、ネット自殺をされる人々の間では、七輪かなんかで一酸化炭素中毒死をするのが、いちばんということになったらしいですね。昔よく事故で死んだくらいで、たしかに、迷惑も苦しみ少ないのかもしれない。 しかし、そうされてみると、「迷惑な死」も「合理的な死」も、本質的には他人である僕にはあまり変わらない、とも言える。 死には意味がない。本人がどう意味づけようと、他人がどう意味づけようと、この世では、死は意味の停止でしかない。 おっと、ここで話題なのは死一般ではなくて自殺率の高さだね。 最近、感じるのは、友愛というものが貧しく無力な時代だということ。 友情にかまけているには、みんな忙しすぎる。 その忙しさの中身というのは、じつはバーチャルな拡散であったりして、実体はないのだけれども。 そういう意味のない忙しさや、経済的な競争、そういうさなかにあって、今は高度成長期から、バブル、バブル崩壊への流れの後かたづけをしている。 収入が右肩上がりだったはずの人生をみんな精算しようとしている。 でも、精算しきれなくなっちゃった人、人生をそのことに預けすぎていた人が、崩壊しているように思える。 今、僕の周りにいる若い人は、クリエイティブ系だからということもあるかもしれないけど、収入が右肩上がりなんてイメージ、もってない。食えればいいさ、と。昔から、僕らの仲間はみんなそうだったけど、すごく増えてる気がする。 本当にそんなことでいいの、って心配になる面もあるけど、今の時代を生きるには、精神衛生上、必要な姿勢だろうと思う。 たとえ、会社に就職しても、右肩上がりなんかないさ。食えればいいさ、と思うところまで、世の中進みつつある。精算が終わって、そういう精神が行き渡るところまで、この不況は続くような気がする。 その後、どうなるか。 なんか僕の中にあるイメージは炊き出しなんだよね。 ごはんってみんなで作って食べるほうが安くておいしいじゃない。 酒も外で飲むより、持ち寄ったほうがうまい。 娯楽は、俳句とか文章とか、音楽とか。 自分で作ったものを仲間同士楽しむ。 ほとんど僕らのやっていることだけどね。 そういうコミュニティを作るような精神が、世の中が貧乏になると、また違う形で生まれるのではなかろうか。 僕はさらに、仁義礼智信みたいな儒教道徳が意外にナウいんじゃないかと思う。 『陋巷に在り』という、酒見賢一の13巻に亘る長い小説が先頃完結したけど、これは、神霊的なエネルギーを制御する作法・道徳として「礼」を捉えるということを軸にした小説。孔子も儒という霊的な一族の出身という設定になっている。 これは、かなり大胆な解釈かもしれないけど、この小説で読む限り、それなりに説得力がある。 (酒見賢一という作家は、すごく深くそういうことを研究しているんだと思うんだけど、不思議な軽みがあって、がんばってもあまり重厚にならない。鈍重にはなるんだけど…(笑)。 酒見賢一のことを思うたびに、星飛雄馬が、「お前は球質が軽い」と言われてガーンとなったのをいつも思い出す。 『墨攻』や『後宮小説』を読んでも、これは中国に舞台を借りた非常に巧妙なパロディなのか、かなりの裏打ちがある小説なのか全然わからなかった。しかし、今回はかなり考証について言及していて、ああ、この作家は本気だぜ、と思った)、 日本人は道徳というと、現状では、学校の授業でやるような、押しつける/押しつけられるもの、というイメージしかない気がする。 しかし、精神的な見えないエネルギーを制御する力学としての道徳、作法というのは、今や完全に崩壊してしまっただけに、再興する余地があるような気がしている。 別に仁義礼智信にこだわることもないんだけれどもね。 しかし、あまり新興のものもよくないので、温故知新がいいかな、と。 ● 「仁義礼智信」で検索したら、こんなの出てきた。 『りゅこ倫』 http:// www.netlaputa.ne.jp/ ~eonw/ lrin/ lrin.html 全然関係ないけどね。ちょっと面白いかな、と。まあ、それだけ。 |