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松×松 アブない?公開往復書簡

デジャー・ソリスと退屈   村松恒平


はろ。花見で奥様ともども、生でお会いしたばかりですが。

前回のリンクは、面白かった。指輪はあんなところに行っていたのですね。
僕も『ロード・オブ・リング』はじつは好きで、2作ともビデオではなく、映画館で見たし、3作目も同様にするでしょう。
傑作だか、駄作だか、といったのは、なんか物語に引き込まれる前に、何物かに圧倒されてしまうのね。
たぶん、いまコンピュータ・グラフィックスと映画技術というものが、爆発的に融合している時期で、映画の何回目かの興隆期ではないのですかね。
映画が生まれた時期には、ただ、馬車やら、機関車やらが映るのを見せたわけでしょう。それは傑作でも、駄作でもないけど「おおっ」とお客を唸らせたに違いない。
それと同様に、僕は物語に引き込まれる前に圧倒されてしまうのですね。
松尾さんが原作を読んでいて、僕が読んでいない、という差もあるでしょうが。

僕は意外にファンタジーとは、相性が悪いのです。
『ナルニア国物語』というのは、子どもの頃、一冊読んだけれども、一冊でやめたところを見ると、それほどはまらなかったということでしょう。
『魔法の国ザンス』シリーズも一冊で辟易した。
『指輪物語』も、ときどき狙っていたのですが、その荘重さ、重厚さ、まあ、悪くいえば、冗長さについていけなかった。
とくに立ち上がりが遅いのは、僕はダメなのです。
結局、ファンタジーって、本格的になると重たくなるし、軽く書くとあやふやになる傾向があるのではないでしょうか。
そこに不気味に作者の人生観の偏向と限界が投影されていたりすると、たまらんものがあります。

僕にとってのファンタジーは、『山田風太郎忍法帳』であり、エドガー・ライス・バロウズの『火星シリーズ』『金星シリーズ』なのです。
『火星シリーズ』は、完璧です。立ち上がりの早さときた日には! インディアンに追いつめられた南軍大尉ジョン・カーターが、洞窟で気を失うと、なぜか火星で目覚める、という……。もう説明も何もない、たった数頁の潔さ(笑)。
http:// www.nsknet.or.jp/ ~hideman/ mars.htm

松尾さんにならって、リンクを貼ってみましたが、懐かしいこの表紙!
清純無垢にして豊満な肉体、高貴な中に意味のない露出度の高さ。
火星のプリンセス、デジャー・ソリス。
この表紙、中学生のときにクラクラきた記憶がある。
これがある種、僕にとっては女性の理想像として定着しているかもしれない(男性ならほとんど好きなタイプのような気もするが)。
しかしながら、実際の女性に要求するには、非常に複雑で難しい資質だ、と言っていいですね(笑)。
この絵、ほしいなあ。
アニメおたくがセル画とかを欲しがる気持ちにも似て?(笑)

話はいくらでもずるずる流れていきますが、前回のメールの中で僕が最も反応したかったのは、若者の「退屈」ということです。
大島渚の『日本春歌考』でしたっけ。荒木一郎がいきなり、学習院のピラミッド校舎の前で、タバコを5本くらいいっぺん吸っている場面から始まるのは。
「退屈」と「欲求不満」、「やり場のないエネルギー」というのが若者だったよねえ。
でも、「退屈」って死語になりかけてませんか? 僕自身がここ20年くらい退屈というのをしたことがない。
だからって、そんなにワクワクドキドキ面白いか、というと、それほどでもなく、
ゲーム、マンガ、ビデオ、ネット、などなどに簡単にアクセスできるから、外から何らかの刺激を入れ続けるのは、難しいことではない。
街灯やその他のあかりに照らされて、都市部に本当のまっ暗闇がないように、現代日本は、けっこう退屈というものを味わうこのできない白夜状態だと、思うのですね。

そのことを、自覚したのは、ずいぶん前にタルコフスキーの『惑星ソラリス』と『ストーカー』を二本立てで見る、という暴挙に及んだときです。
タルコフスキーはいい、面白い、と物のわかった人は皆さん、おっしゃるのですが、僕は、すごい退屈なことに感心したのです。
ストーリーとあまり関係のないと思われる、川の中で水草がたなびいている様子が数十秒か数分か、ずぅっと映り続けているときに、「ああ、さすが共産主義国の映画だ。エンターテイメントに支配されないと、映画作家というものは、こういうものを撮るのか」と一種、新鮮な驚きを感じました。
つまり、退屈というのは、人間を取り巻く環境が変化が少なく、人間の内側に余剰のエネルギーが溜まった状態なのに、それが流れる回路がないこと。
これに対して、今の日本は、変化と刺激と回路だらけ。
だから、内面に貯えられるエネルギー水位は低くなるのです。

そうすると、思い出すのは、大宅壮一の「テレビは一億総白痴化の道具だ」という言葉です。この言葉の矢は、発された当初より、今のほうがすっと深く現実に突き刺さっている。
しかし、現代ではこんなこと言っても、「白痴で何が悪い?」「白痴って……何?」「差別用語だ」「白痴は辞書にない(by ATOK14)」と口々に色々なことをいうだけで、警句にもなりゃしない。
3Sなんて言葉もあった。スピード、セックス、スポーツの3つのSによって、アメリカは日本人の若者を骨抜きのバカにしようとしている、なんてことも言われた。
ほんとに3Sが政策であったとしたら、それは大成功だね。
3Cというのもあったが、それはこの際、関係ない(笑)。

朝日新聞の記事によると、日本人の若者は、外国の若者より人を殺さないらしいのです。やはり、そういう面を見ると日本の若者は巧妙にガス抜きされ、管理されていると言えるわけですが、管理しようなんて考えた世代の奴らは歳をとって死んじまったから、今は主のいないシステムだけが残って、そのシステムに生み出された人間たちが、ぶよぶよと肥大しながら、そのシステムを再生産しているという景色に見えないこともない。

これは平和と呼べば、平和そのものような気がする。争いを起こすエネルギーそのものがない。しかし、みんな平和を愛し、それにどっぷり浸かっていても、あるとき、権力の上のほうで、いつの間にか戦争に加担することを決めたときにも、ただぶよぶよと存在していることしかできないのも事実である。
まあ、政治というのはいつもそういうものかもしれない。

まあ、時代というものはけっこう顕著に変化していくものだなあ、と思うだけである。昔はよかった、というほど、かつて幸せに生きてきた記憶もないし。別に不幸でもなかったし。



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