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松×松 アブない?公開往復書簡

現実が変容するとき   松尾由紀夫


4月23日の朝日新聞夕刊に「ユピキタスが変える現実」という見出しで、黒崎政男という哲学の先生がこんなことを書いていました。
「ユピキタス」というのはラテン語で「遍在」という意味らしく、あらゆるモノにコンピュータが入り、あらゆるモノがネットワークでつながった現状を示すようです。コンピュータが現実のあらゆるモノに付着して、電脳ネットワークが現実の社会をすっぽり覆ってしまうことで、確固とした現実とヴァーチャルリアリティ(電脳空間)の対立、実在と仮想の区別が消えてしまい、つながっているものだけが現実で、そこからもれるものは、そもそも存在していないことになるといいます。
そして、実在を彼方に押しやってしまった「ユピキタス」社会の住み心地はいかなるものかと問う、そんな内容です。

まあ、社会を先回りしたような、いかにもな。
確かに、言われているような「ユピキタス」社会であるとしても、ネットで一緒に自殺する(心中じゃありませんよね)相手を捜す人々が、ディスプレイに向かっている自分の背後にある現実社会を彼方に押しやっている事情は、ちょっとわかりません。

つまり、「ユピキタス」で現実が変わるというのは、おかしな表現だなあと思うんです。

一方で、これも朝日新聞4月20日朝刊の読書欄に、歌人の穂村弘が小説『アリス』中井拓志(角川ホラー文庫)の紹介でこんなことを書いていました。かつて、子どもたちが光感受性発作で(アニメ『ポケモン』を観ていて)同一時刻に全国でバタバタと倒れた事件があったとき、あるいは「サヴァン能力」(びっくりするほどの計算能力とかを発揮する)の存在を知ったとき、そのときに、現実がドミノが倒れていくようにきらきら変容してゆく光景をイメージしたというのです。

でも、それはもちろんイメージだし、事件は気の毒な事故だし、能力には限界だってあることもわかる、「さすが現実、ちょっとやそっとじゃびくともしないや」。ところが、小説の中では、それらの現象が、現実を転覆するエピソードとして登場するらしくて、「現実というシステムに何重にも守られ日々を送っている自分が、その変容や崩壊にこんなにもときめくのは何故なのだろう」と。

さて、この文章の見出しが「常識の世界を覆えす少女」となっていて、どうして「現実」じゃないのかなあと思いました。

うーん、新聞をネタにこんなことを書いていると、おっさんみたいだしなあ(いや、充分オッサンなうえ、もはや初老と言いたいところなんでありますが)とか思いますけど、さらに、新聞記事。

先の4月23日の朝日新聞夕刊には、かつて米国政府要職に就いていたエリート経済学者のダニエル・エルズバーグ博士(72歳)が、反戦の意図をもって政府職員に内部告発を呼びかけ、ホワイトハウス前の公園から退去せずに、逮捕を待っているという記事も載っていました。

博士は34年前、「ヴェトナム戦争」の泥沼状況の実態を国防省の秘密文書で、内部告発したのだそうです。
そのきっかけは、収監を厭わずに徴兵忌避した若者との出会いで、以来、戦争を終わらせるために非暴力でできることは何でもやろうと決意したとのこと。

えーと、何が言いたいのかというと、私はこの博士に、現実の変容が起きたんだと感じたんですね。
もちろん、事情はそう簡単なことばかりではなかったでしょう。
ひとり? の若者との出会いというのは、いかにもなストーリーです。
けれど、何かをきっかけに、現実の変容は起きて、それが現在の行動につながっているのは確かでしょう。

きっかけは、一篇の小説だって、あるいは、ひとつのうたでも。

先の歌人、穂村弘
http:// www.sweetswan.com/ homura/ works.html
の歌集『手紙魔まみ、夏の引越し(ウサギ連れ)』から、適当に開いたページのうた
をいくつか抜き書きしてみます。

「それはまみ初めてみるものだったけどわかったの、そう、エスカルゴ掴み」

「知んないよ昼の世界のことなんか、ウサギの寿命の話はやめて!」

「それはそれは愛しあってた脳たちとラベルに書いて飾って欲しい」

「フランケン、おまえの頭でうつくしいとかんじるものを持ってきたのね」

「大切なことをひとりで為し遂げにゆくときのための名前があるの」

「赤、橙、黄、緑、青、藍、紫、きらきらとラインマーカーまみれの聖書」

「神様、いま、パチンて、まみを終わらせて(兎の黒目に映っています)」

現実と虚構を混同することの愚かしさは、きちんと判らないとダメなんですが、前回リンクした『地球の恋人たちの朝食』の掲示板、『Gパンで月をゆく』
http:// 6629.teacup.com/ mamix/ bbs
には、ハッとするようなコトバづかいが満ちています。

いや、取り止めがなくなるのと、デタラメになる(をする)というのは、似ているようで全然違いますから、困りもの。

そんな訳で、話はふいに変わります。
前回の村松氏の文中にあった「友愛」というコトバ。

私は、つい最近、『苺とチョコレート』というキューバ映画を観ました(ヴィデオはアップリンクから出ています)。
キューバの社会主義については、よくわかりませんが党の下部組織の活動家の学生(まあ「民コロ」のような、と、このコトバはおそらく蔑称で正しくは「民主青年同盟」員というのでしょうか、つまり「日本共産党」の下部組織です、はい歴史の勉強でした)とゲイの芸術家との、友愛に至るストーリーです。
芸術家は政治的にも性愛的にも抑圧を受けながら、個人としての自由? をふるまいつつ、学生はその姿勢に(しだいに)共感を覚えながら、活動家としての自分との相克を悩みつつという。
キューバという風土がいまひとつわからないせいもあって、奇妙なテイストが感じられる、キュート? な映画でした。
芸術家は(なりは男ですが)女なので、ストロベリー・アイスクリームを注文し、学生は(もちろん?)男なので、チョコレート・アイスクリームを注文するという(そんなの好きなの喰えよとか思うでしょう?)。
ま、最後はお互いに分かち合って、両方の味を楽しむんですけど。
ここでつくづく思い知らされるのは、偏見と怖れこそが、敵、ということです。
政治(思想、理想)においても、性愛においても、踏み込めない領域はあるにしても、前提に偏見や怖れがあったら、理解は訪れるはずもありません。
理解や共感に至るまでの、両者のナイーブな心情をたどって、友愛というテーマを描く、この映画、機会があれば、ぜひ。

ああ、そうだ。
実は、私、別のサイトでも文章を書くことにしたのでした。
下手な映画紹介を、そちらでもしたのでした。
タイトルは『ヨッパらって書く』
http:// www.geocities.jp/ sentaksen/ yopatext.html
です。
こちらで書いていることにも微妙にリンクしていたりします、よろしく。

で、話は、さらにつづいて。
例えば、「構造改革」というのがありますね。
私、ほとんど関心がないので、詳らかではありませんが、今内閣が、それとも現首相が、ことあるごとに口にしているようです。

私は、関心がないといいつつ(いや、ないのは内閣と首相にですが、まあ、全部一緒といえば一緒ですから)、やはりコトは、現実の変容にかかわると思ったりします。

どこの誰が、自分の現実と無関係な事情で、いまある権益を手放すでしょうか。
現状で、自分の持つ権益がつくづく嫌になっちゃうくらいの現実の変容が、各々の現実に訪れないかぎり、不平や不満はいつまでも残るでしょう。
それこそ、戦後何十年みたいに、さ。

現状批判というのが、もし有効性を持つとしたら、この現実の変容をもたらすモノでないかぎりうまくいかないんじゃないかとさえ、思います。

昔むかし、全共闘という、もはや蛇蝎のごとく忌み嫌われている団体? 団塊? がありました。
私は、高校生のそれなら、いささか知っているという世代(!?)なので、いくらか引きぎみな気分で、こういうことを言うのですが、あの集団は、その弱さや迷いに本質や美質を持っていたということを思い返したりしないではないですね。

いま、世間は、「死刑求刑」や「核保有」でハシャいでいますが、その違和感(むろん、反対や反論ということではありません)にふさわしいのは、「現実の変容」と「友愛」というコトバなのでした。

私は、次あたりから「サブカル」と「オタク」と「アカデミズム」とかっていう、しょーもないコトを、むかし話を蒸し返すみたいに、してみようかな。



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