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松×松 アブない?公開往復書簡

「サブカル」と「オタク」と「アカデミズム」を蒸し返す   松尾由紀夫


前々回の私の書簡においてリンクした『八本脚の蝶』二階堂奥歯さんの自死を悼み、
哀悼の気持ちをここに記します、黙祷。

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さて、「サブカル」と「オタク」と「アカデミズム」とかっていう、しょーもないコトを、むかし話を蒸し返すみたいに、してみるわけですが、ってこの文章はちょっと変でした。
コトを、してみるって、何だ? それをいうなら、話題にしてみる、ですね。

しかし、誰に言われるまでもなく、確かに、いまさら感がいかにも強い。
「サブカル」「オタク」に「アカデミズム」って、「パセリ セージ ローズマリーにタイム」ならまだしも、いやこれも古いか。

かつて、分類不能だったものがすでに主流になって、もはやユースカルチャーにとどまらない、マンガ、SF、ミステリ、アニメ、ゲーム、映画、音楽、スポーツ、芸能、アイドル、エトセトラ。
雑学系、レトロ系、H系、トンデモ系、裏モノ系、鬼畜系、電波系、エトセトラ。
そもそも、カウンターカルチャーが死語になって、メインやマスのカルチャーがサブカルチャーの対語として機能しなくなって久しい現状で、「サブカル」という軽い4文字は、例えば書店のコーナーや、図書館の雑著という分類に都合のいい名称です。

そんなカルチャーにおける、エリートな、マニアな、求道的な深みへ向かう者たちへの、いくぶん揶揄的侮蔑的な意味合いを含んだ呼称が「おたく」だったのですが、
『おたく』の研究
http:// www.geocities.co.jp/ Playtown-Bingo/ 1049/ people/ otaku.html
「オタク」とカタカナで表記されるいま、この研究もすでに古文書でしょう。

まして、「サブカル」や「オタク」が大学で講義、研究されることも、いまでは例外的な粋狂ではなく、高度消費経済社会からの、つまりマーケティング上の要請に基づくだけではない、「アカデミズム」の階梯における要件らしいのですから。

もちろん、ネット上には、諸ジャンルの現場からの実況のような記述があふれ、ありふれていて、もはやすべてをフォローできるはずもありませんから、私はいくつかのサイトを眺めて、なるほどねえとか、ふーんとか、ありゃまとか思ったりするのでせいいっぱい。

そういえば、2001年になったばかりの頃(つまり21世紀の始まりに)、『サブカルチャー世界遺産』(扶桑社)という80年代90年代のモロモロをカタログ化しながら、キイパーソンへのインタヴューとキイワードのコラムで編集した本が出ました(なんとなく、村松氏と私の『雑学人間入門』を思い出しますね)。

その編著者のひとり、松谷創一郎の『recent events』
http:// www2.diary.ne.jp/ user/ 58683/
にあった、こんな記述。

> ●博報堂「広告」誌の20代特集が面白い。20代といってもこういうときに
> 取り上げられるのは主に20代前半。宮台さんがそういう若者を「ベタ(ヒ
> ネリなし)とネタ(戯れ)の区別ができない」と論じているのは見事。
>  また、僕は最近とある定点観測的な取材を進めていたのだけど、その結
> 果、最近の若い人に「ジャンル」という区分のこだわりがないことが、ほ
> ぼ確認できた。あるのは、「濃い」か「薄い」かだけ。昔のような「新人
> 類×オタク(1957年前後生まれ)」とか、実はそれを継いでいた「サブカ
> ル系×オタク系」(団塊ジュニア・第二次ベビーブーム世代)という、
> 「似て非なる突出的存在同士の対立」がない。良く言えばフレキシブル、
> 悪く言えばこだわりがない、という感じ。
>  もはや「オタク」とか「サブカル系」だとかに上の世代が拘泥していて
> も、下の世代は興味ない感じだ。

なにかのジャンルに拘泥するのではなく、あらかじめある「オタク」というジャンルの消費者層が語られるのみ、といった印象です。

宮台さんとあるのは、宮台真司
http:// www.miyadai.com/ message/
ですが、彼のいつもどおりの言説「動物化する20代を人間に戻す時が来た」を、私はマに受けるほどウブではないし、同『広告』誌に書いている、阿部嘉昭
http:// abecasio.s23.xrea.com/ texts1.htm
という、立教大と日芸で『精解サブカルチャー講義』(河出書房新社)をしている評論家の言説にも。
とはいえ、それはそれ、また別の話かもしれません。

前回、村松氏の「逸脱」と「変態」ですが、それこそむかし、「ヘンタイ」「ビョーキ」という表記で、「逸脱」や「過剰」が「もっとカジュアルになったり、たしなみになったり、自己責任になったり、人間が生きていくもっと中心のほうにすり替わっていた」という事情が、確かにありましたね。

どうも、その事情は「サブカル」「オタク」「アカデミズム」でも(当然ながら)同様なんです。

「変態」「病気」「畸形」さらに「狂気」「犯罪」とか、つまり「悪徳」「悪趣味」という「バッドテイスト」の遍在。
その一方で、(宮台も言うように)「(チョー)カワイー」の連発もとに、すべてが「フラット」化するという事態も同時進行。
ちなみに、いまは「アリエネー」が乱発されているらしい。

もともと、正統も異端も無いところに出自を持つカルチャーとはいえ、逸脱や過剰という限界を超えようとする意図は、痙攣的なふるまいなので、審美的ですが、それが飽和してしまい、さらなる刺激、過激へと向かう道行きは、いつしかその出自も見失われて、ケレンやハッタリにとどまります。

求められたのは「表現の自由」ではなく「自由な表現」、孤立ではなく孤高だったはずですが、それもやっぱりいまさらなのでしょう、うーん。

あらゆる「問題」を先送りにして、忘れて、無いことにして、右肩上がりの経済をとりあえずの護符に、加速度的な大衆化という衆愚化が進行。
「濃い」「薄い」ならぬ、「良い」と「悪い」、「スゴイ」と「ダメ」という見極めもあいまいに、したり顔の事情通に解説されながら、わかりやすさに安心したいのは、自分で考えることを放棄していたからでした。

停滞あるいは衰退する経済のもと、すでに「問題」を自分で考えられない事態に、断を下したのは、なんと「勝ち」と「負け」。
「良い」と「悪い」、「スゴイ」と「ダメ」は、必ずしも「勝負」ではないにもかかわらず、それでも、多勢はどうやら勝ち側につきたいらしい。
もはや、私はうーんと言うのみです。

しかも、事情が複雑なのは、そこには勝った誇らしさがない、なさそうだ、ということ。
ちょっと考えれば、そんなの当然なのに。
だって、あらかじめ、自前じゃないんだから。
野茂や中田、松井やイチローとは違います。

さらに、いったん負けると、敗者復活は望めない、起死回生がない、なさそうだ、ということ。
そんな立場を直視するのは辛いし、そもそもできない。
だから、「明日があるさ」とか「世界にひとつだけ」とか、嘘ばっかり。
つまり、負けてもまだむしられる、ということなのか。
いや、酷い目にあっていることもわからないらしい。
再び、私はうーんと言うのみです。

もし、ほんとうにかけがえのないひとつであろうとするなら、ひとつの、つまりグローバルなスタンダードの中での自由競争によって多様な個性を生きればイイなんてトリックに騙されてちゃダメでしょう。
そこには多様な生き方なんかなくて、ひとつの生き方の勝ち負けだけがあって、その結果生じる差異を個性と呼んでいるだけです。
それは、自らの育むかけがえのなさとは何の関係もナイ。
そんな中にあって、運やチャンスがあればと思うのは、有力なコネがあればと考えるのと同様です。
そこでは、かけがえのなさ、つまり、本質的な能力が問われることが、実はナイとさえ言えます。問われる能力とは、多様なそれではなく、たったひとつのそれなのです
から。

はてさて、しょーもないながら、私が「サブカル」と「オタク」と「アカデミズム」を蒸し返すのも、もう単に「カルチャー」でもいいんですが、そこにあったスピリットのようなものを思い返すからなんですね。
まあ、また別の話は、また。

ところで、矢作俊彦と大友克洋の『気分はもう戦争』(双葉社)ノリの戦争レポートは「アンマン空港爆発事件」で吹っ飛んだみたいで、良識という勝ち組に指弾を受けている模様、URLも移動していて、見つからなくなったページもあるようなので「適切なリンク」ではありませんが
人間の盾団の裏側
http:// 2.pro.tok2.com/ ~higashi-nagasaki/ g_a/ G53-53.html
そりゃ、ハシャぐのもアレですが、罵るのもドウなのか、とは思いますね。惨い現実を前にして、むやみに不謹慎を言上げするというのは、一見、正しいことのような気に、言ってる側も言われた側も、なってしまいますが、その言説の内実を読み取るのが、えーと、メディアリテラシーでしたっけ。

これはついでですが、ファンタジー画家ロウィーナの絵画が、フセインと愛人が過ごしていたという部屋で、たくさん見つかったらしいです。
http:// www.sfgate.com/ chronicle/ pictures/ 2003/ 04/ 13/ mn_loveshack.jpg
村松氏の好きな武部本一郎『火星のプリンセス』もそうですが、このテの絵に、剣と龍、半裸の美女はお約束。
それを独裁者の残虐と変態の証拠だと糾弾するのも、ドウなんでしょう。

いずれにしても、硬直した思考で、戦争のような事態に対応するのは、うーん、やっぱり。
だって、正義と倫理なら、一方の大統領もコトあるごとに口にしていますから。



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